ごはんとみそしるの日記

日々のあれこれ

喪の作業

 先日実家に行った折、リビングのレースのカーテンが新しく取り替えられた。以前から準備を進めていたものらしい。見るたび何度も「いいねぇ。」と母が口にする。そして、「お父さんが退院したときに見せたいと思ってたのにさぁ。」と続ける。それに私が「そうだよね。」と応じる。その会話がお互い何度となく繰り返される。

 洗面台を新調する計画もあり、「お父さんのために取り替えるはずだったのに。」と言う。そして私が「そうだよね。」と応じる。これも同様。

 退院するはずの日に合わせて取り寄せた牛肉も、一緒に見たいと思っていた昔の写真も、「こんなはずでは」という母に、「そうだよね。」と私が応じる。

母の気持ちを想像してみる。

 当たり前だった日常がもう期待できないことを何をするにも突きつけられる、喪失感が波のように何度も押し寄せる、そんな毎日を。

そんな中で、母は父への思いを口にして今を確認し、心を整理しているのかもしれない。一つ一つの未練に「そうだよね。「しかたないよね。」と言い聞かせて。

そして、あらためて気がつく。喪の作業というのは、「あきらめる」という作業の繰り返しなのだと。

離れて暮らす私は、母ほど日常はかわらないけれど、それでもいろんな未練が頭をよぎる。今度遊びに来たときにはあそこにつれていこうと思ってたのに、とか、息子たちの面白い話を聞くにつけ、これを父に話したらきっと大笑いしたろうに、とか。そんなふうに浮かぶ一つ一つに、自分で「しかたないよね。」と突っ込みをいれている。

父の思い出や、父への思いを、口に出すことは、きっと大切なことなんだと思う。そして父がかけがえのない大切な人だということを再確認し、沸き上がる未練を一つ一つ語り、そして整理をして少しずつあきらめていくのだ。次に母に会ったとき、またお互い未練合戦をして、「しかたないよね」を繰り返そうと思う。