ごはんとみそしるの日記

日々のあれこれ

toi toi toi

 次男の大学進学のため札幌に数日滞在し、帰路に着いた。なかなか湧いてこなかった「感傷」もさすがにここ数日はなにかと登場し、おかげで「子離れ」の準備をすることができた。


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  次男は、末っ子気質そのもので、家族には自分で考えるより疑問形で口にして周囲に考えさせ、動いてもらうのが常の甘えん坊である。「どうしたらいい?」から「何時に出たらいい?」まで、逐一口に出しては周囲が答えを出すのを待っている。「自分で考えなさいよ!」と言い放しつつ、なにかと世話を焼くことになり、自己嫌悪に陥ること幾度か…。それは、主人も、兄である長男も同様だ(何度も私に叱られている)。

 しかし、これがもう自分に向けられることはないのか、と考えるとなんとも言えずさみしい…。大見栄を切ってなんでもないふりをしているが、もう頼られることはないのか…という喪失感は、結構大きかったりするのだ。

 

 彼にはたくさん楽しませてもらった。小さくてあどけなかった頃はもちろん、今に至るまで、いいことも悪いことも、うまくいったことも失敗も、彼のことは「家族のこと」だった。真面目にやっているのに笑えるエピソードを生み出す才能は、我が家の自慢であり、宝だった。おおよそアカデミックなキャラではないが、最近テレビの英語に反応したり、朝ドラで出てきた憲法の序文を諳じたりしている様子をみると、受験勉強で身につけたものも少なからずあったのだろうと感じる。かけがえのない仲間が年を重ねるたびに蓄積されているのも、周囲の優しさや幸運もあるが、彼の持っているなにかがきっと影響しているのだろう。心配はつきないが、間違いなく、我が家の自慢の息子なのである。

 

 今まで彼がくれた幸せな時間に感謝。そして、あと、親としてできることは、見守ること、祈ること、あとは、なけなしのお金を出すことくらいか。

 

 彼のラインに

ドイツの「うまくいきますように」というおまじないを送っておいた。

 toi toi toi !!!

 

 

ぽよよん行進曲と虹

 次男の大学進学のために、札幌に向かう車のなかは、なんの変哲もないいつもの車内だった。次男は単身赴任している主人のところで新生活をスタートするので、双方ともに感傷に浸るきっかけがない。

「これでいいのか⁉️」

 変な焦りを感じていたら、ふと、フロントガラスの前方に虹がかかった。低い位置の虹は、すぐそばの山の麓から向こう側にすごく「身近」にかかっていて、どこか私たちへのはなむけかと感じさせてくれた。

 そのタイミングで、かかっていたラジオから「ぼよよん行進曲」が流れた。

「ぼよよん行進曲」なつかしい❗️次男が2、3才の頃、よく聴いてたっけ。

 

どんな大変なことがあったって

君の足のその下には

とてもとても丈夫な「バネ」がついているんだぜ(知ってた?)

押しつぶされそうなそんな時だって ぐっとひざ小僧に勇気をため

「今だ!スタンバイO・K!」

その時を待つのさ
… … …
ぽよよよ~んと空へ

とび上がってみよう
ほらあの雲まで手が届きそう

ぽよよよ~んと高くとびこえていこう
虹のふもとで笑顔で待ってる君がいる

 

うわっ、なんだこのシチュエーションは。虹に続いてこの歌詞…怒涛のエールの連発…偶然にしてはスゴくない?

 

「CDでよく聴いたよね~」と口にすると、主人が「○○はトンネルに入ると泣くから、気をそらすためにずっと歌ってたよね。」と応じた。

 

 そうだった。次男は癇が強く、車に乗って遠出をするときは、彼の好きなCDをかけて、私と長男が歌って気をそらす、という役目を担っていたのだ。

 

 ずっと忘れていたそんなエピソードを思い出したとき、この次男は、私たち夫婦と長男(9才差)とで なんやかんやと慈しんできたんだよなぁと、ついに「感傷」のきっかけがやってきたのだった。

 

 なにかに導かれるように「感傷」へのさざ波が起きたのは、もしかしたらもう会えなくなってしまった誰かからのメッセージなのかもしれない。

 

 

リクエスト

 四月から、次男が家を出て札幌で大学生活を送ることになった。一緒に過ごす日常もあとわずか…。もう一緒に暮らすことはないかもしれない、とか、まだまだできないこと満載なのにちゃんとやっていけるのか、などと感傷や心配気分に襲われそうなところだか、どうも私は中途半端な心境のままだ…。

 

 それというのも、彼は独り暮らしをするのではなく、札幌に単身赴任している主人のところで新生活をスタートするからだ。本人のなかには、どこか平行移動のような気楽さがあり、それほど心細さも寂しさもない、という心境も頷ける。こちらとしても、「何かあってもお父さんと一緒だから。」という安心感と、日用品を買いそろえるなどの細々した忙しさがないので、全く切羽詰まってこない。これじゃいけないんじゃないかと、意識的に気持ちを盛り上げようとするが、それもうまくいかず、いつものような「春休み」を過ごしている。

 

 そんな私の心理を知ってか知らずか、長男からやんわりプッシュされた。「○○が家で食べる夕食、あと三回だよ。」…そうなのだ。わかっている。

…でも、それを口に出さなかったのは、やっぱりちょっとそこを考えないでおきたい、という私の「逃げ」もあったかもしれない。

 

 そんな自分を反省し、口に出して「もう最後だから、なに食べたい?」と聞いてみた。昨日は唐揚げ、今日は牛丼。次男のリクエストに応える夕食が続いている。

言い間違いの記録

 我が家の「言い間違い大臣」の次男は、数日に渡って絶好調だった。次から次へと新作を披露してくる。

 

 朝食を食べながら占いの話になり、「タロット」と言いたいところをしれっと「トロッコ」とのたまった。母は指摘したが、本人は「そんな小さなこと」とでも言いたそうな表情である。

 

 しかし確かに、それは小さなことだったかもしれない。彼はその日、兄の車に乗せてもらいながら「アイヌ」と言いたいところを「アヌイ」と言ったのだとか。知ってる言葉をあえて言いにくそうに間違えるなんて、かなりの上級者とも言えまいか…。

 

 さらに翌日、友達と釣りに挑戦したいと言う彼に、釣った魚はどうするつもりかと聞くと、自慢げに「リバースするつもり。」と返答してきた。リバース⁉️私の頭の中では、裏返して柄が変わるお魚さんが浮かんで、一瞬で撃沈したのであった。

 

 そして極めつけ。テレビで「中島みゆきの悪女」というフレーズを聞いて、「あっ、あの歌?ほら、『呪いま~す~』ってやつ。」と言い放ったのだ。もうスゴいとしか言えない。ダブルで間違ってくる…。違うよ、と伝えると、「祟ります、だっけ?」と畳み掛けてきた。

 

 ここまで来ると、この言い間違いを記録して後世に残しておくのが母の役目だと思い直している。

 

 こんな彼だが、4月からはなんとか無事に大学生になってほしいものだと願っている母なのだった。

 

 

余ってしまった切手

 中野先生。あっという間に逝ってしまいましたね。

 病院にかかり、病気が見つかり、あと一ヶ月と告げられ…そして、そのひと月も待たずに、一目会うことも、声を聞かせてくれることもなく…。頑なな姿勢は、きっと先生の美学だったのだろうと、思っています。

 

 昨年の春、突然お電話をくださり、途切れていた交流を再開することができました。夏には久しぶりの再会。感動で思わずハグしたこと、今も胸が熱くなります。メールのやりとりもして、次男の高校野球の応援も熱心にしてくれましたよね。何気ないやりとりも楽しかったです。10月になり、私の仕事が急に忙しく余裕がなくなり、メールのやりとりの間隔が空いてしまいました。特に意識していた訳じゃなく、「冬休みにゆっくり」とか「春には会いに行こう」とか考えて、なんとなくメールを送るのを先延ばししてしまったように思います。

 クリスマスのプレゼントに手袋を送り、きっと先生からメッセージが届くだろうと楽しみにしていました。でもメッセージが来なくて、おかしいなと思っていた頃、先生の施設のお友だちから連絡をいただきました。先生のご病気の状況を。

 

 携帯電話をかけても、メッセージを送っても、連絡がとれず。携帯の電源は切られたままでした。先生はその頃、自分の人生を終えるための心の整理で精一杯だったのですよね。せめて、先生にして差し上げたいことがたくさんあったけれど、病院の規則で会いに行くことも叶いませんでした。だけど、先生の大切なお友だちが不安を受けとめたり、手や足をさすったり、そんなことをしてくださっていると聞き、とても救われる思いでした。先生、寄り添ってくださる方がいてよかったですね。

 

 それでも先生に気持ちを届けたくて、手紙を書きました。そうしたら、お友だちが手紙を読んで聞かせて下さったと。だから、それからは先生への気持ちを毎日ハガキを書いて送りました。いろんな思い出が溢れてきました。

 そんな風に、ハガキを書き続けて過ごすようになった今日になって、午後に先生が旅立たれたと連絡を受けました。

 

 ねえ、先生。先生は私に最期に大切なことを教えてくださいましたね。それは、小さなやるべきことを先延ばしにしてはいけない、ということ。私の一週間は先生の一週間と違うことに、どうしてもっと気持ちを配らなかったのか。ずっと先の再会の約束より、こまめなメールの方がずっと先生を力づけてあげられたはずなのに…。今回の私の痛恨の、取り返しのつかない後悔…「もう後悔のないように」そう先生が私に教えてくれたのですね。

 先生の教えを、心に留めて残りの人生を生きていきます。もうじゅんこちゃんと呼んでくれる人はいなくなってしまいました。

 先生のために準備したハガキ用の切手がたくさん余っています。もっと書き続けたかったのにな。

 

 

干し柿

 叔母の家からレターパックが届いた。開けてみると、「干し柿が仕上がりました。甘味は今一ですが…」という手紙と共にスイーツの空き箱に行儀よく並べられた干し柿が六個入っていた。田舎のおやつ、というこれまでの概念を覆すような、すまし顔の干し柿が可愛らしくて、しばし眺めたのち、家族でいただいた。甘味のおさえた、素朴で上品な味がした。

 さっそく、叔母にお礼の電話をした。私は知らなかったのだが、叔母は10年くらい前から親戚に渋柿を送ってもらい、毎年干し柿作りに挑戦していて、軒先に干された干し柿は、近所の風物詩になっているのだとか。「天気に左右されるのよー。」と飄々と語る叔母だが、長く続けてきただけあってその説明にも愛着がこもっている。

 考えてみたら、叔母が干し柿に挑戦し始めたのは 70歳くらいからではないか。たぶん力むことなく手をつけたのだろうが、年月を重ねるごとに熟成されていって、今に至るのだろう。このためにとっておいたセンスのいい空き箱に、愛情を込めて干し柿を並べる叔母の顔が浮かぶようだった。

 いくつになっても、ひとつのことを力まず丁寧に続けていくこと。これからの生き方のお手本にしたいと思った。

アカデミアの歌

 朝早くに母から電話が来た。新聞に、昔私がお世話になっていた塾の先生のことが載っていると言う。

 そこに行くのが大好きで、長く心の拠り所となっていた場所だ。学習塾ではあったが、「君たちはどう生きるか」をいつも問われているような、厳しく、でもあたたかい場所だった。そうだ。塾の歌、あったなぁ。教室の前に掲げてあったはず。そこまでは浮かんだが、塾の歌がどんな歌だったのか、思い出せない。モヤモヤをそのままにして、日常のルーティーンをこなしていると、ふっと最後の「あぁ、アカデミア」という歌詞とメロディが蘇り、そこから絡んだ毛糸がスルッとほどけるように、その歌が口からこぼれ出てきた。

 

互いに学び、互いに遊んで

共に過ごした 仲間達よ

先生と私たちの強い絆

たとえ離れても忘れない

互いに信じ、私達だけの

心のふるさと、ああ アカデミア

 

 そして、その頃の思い出の数々も溢れ出てきた。確か、その歌は私よりも年上の学年の仲間で作り、先生がとても嬉しそうに私達に紹介してくださったのだ。先生が、一フレーズずつ口ずさんでは、「いいだろう?」と自慢げに言う、その場面ごと蘇ってきた。そうだ、それに私達が卒業する時には、仲間みんなで手をつないで輪になり、この歌を歌ってお別れをしたっけ。

 

 数えきれないほどの楽しい思い出も、数々の恥ずかしい失敗も、今でも心に残る先生のセリフも、もう会えなくなってしまった友の顔も、歌がBGMとなって浮かんでは消えていく。あそこは、与えられたものに囲まれてすべてが自分中心だったほんの子どもの私に、大人になるための強烈な刺激を与えてくれた、私の人生の大切な場所だった。

 

 大好きな先生に恥ずかしくない生き方を。その思いは、今もかわらない。イベントには参加できないが、この日は私も心の中で、再び思い出したこの歌を歌って過ごそうと思う。