ごはんとみそしるの日記

日々のあれこれ

栗の木のそばで暮らす

 我が家のそばに、大きな栗の木がある。家の裏の崖下の、誰の土地かもわからない笹藪に大きく枝を広げているのだが、動物しか行かないような環境のため、栗がたわわに実っているのは見えるのだが、拾いに行く事などできず、これまでは「絵に描いた栗の木」だった。ずっと、眺めるだけの存在だったのだ。

 しかし、今年は主人が動いた(笑)
「開墾ダイエット」と称して、休日にせっせと栗の木までの笹藪を刈り、人が一人通れるほどの道を作ったのだ。そして九月の末頃、栗の木のふもとにビニールシートをひいておいたところ…先週あたりからパラパラとイガ付きの栗が落ち始め、私は先週から毎朝、栗拾いが日課になっている。

 子どもの時も含めて、自分が栗拾いをしたという記憶はなく、栗は「買って食べるもの」だった。主人の母は自然と共に生活している人だったので、帰省すると栗おこわや渋皮煮などをごちそうになったが、無精な私は自分が栗拾いをしようとまでは思っていなかった。

 どうして、今年になって夫婦して栗に心引かれたのか。はっきり意識したわけではないが、夏に一緒に見学した大船遺跡で、縄文人が栗を食していた、ということを知ったことも少なからず影響しているように思う。今までさわったことのなかったスイッチがonになったかのように、少しずつ栗への意識が変わっていった。

 他にもいろいろなきっかけが重なり、裏の「絵に描いた栗の木」は、どんどん我々の生活に近い存在となり、今や「大いなる恵みの木」、リスペクトの対象である。

 毎朝栗の木のふもとに行き、「おはようございます」と挨拶し、「今日もこんなに⁉️すごーい。」と独り言を声に出す(誰もいないので)。そして、「どうもありがとう」とお礼を言って家に帰る。
翌日行くと、さらにたくさんの栗。

 こんな毎日が続くと、まるで栗の木にもてなされているようだ。今年ほど栗ご飯を食べた年はないし、ご近所にもおすそわけした。イガは、保育園で栗を拾った時にやっていたという長男が、靴を履いた足で器用にむいてくれる。20年前の学びが生かされたね、と得意げだ。


 昨日は風も雨も強かったので、雨が上がった昼頃にいってみると、拾いきれないくらいの栗がシートいっぱいに転がっていた。

「恐れ入りました。」と笑いが込み上げた。自然ってすごいなぁ。

 毎日の栗拾いは、大地と会話しているような壮大な気持ちになり、大昔の縄文人ともつながったかのようなロマンも味わうことができる。

栗の木のそばで暮らす。その贅沢を、今、存分に味わっている。